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東川。お米と向き合うその姿勢に、北海道の稲作の歴史が重なって

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2021.6.17

今から数年前、以前の職場での出張で、旭川空港を利用することがあった。その時、空港に到着して建物の外に出た瞬間、顔に当たる空気の温度で、随分遠くに来たことを(文字通り)肌で感じた記憶がある。
私はその当時、降り立ったその旭川空港から車で10分強ほどの距離にある、東川町のことを知らなかった。あの時このまちを知っていれば、絶対に足を延ばしていたはずなのに、つくづく残念であった。そしてその後、私は東川町の存在を知ることになるのだが、このまちは、それこそたくさんの魅力があり、東川町のことを書いた書籍がいくつもあるくらいだ。

そんな多くの魅力の中、今回触れたいのが「東川米」だ。東川町が誇る、北海道初の地域ブランド米である。独自に設けた厳しい基準とともに、町の農家の方たちは努力を重ね、その品質を向上させただけでなく、その水準を保ち続けた結果、「東川米」のブランドは確固たるものとなる。私は、この東川町の農家の方々の生産への姿勢に、北海道の稲作の歴史の結晶のようなものを感じる。

北海道と稲作、その歴史とは。
北の地での、もっとも古いとされる稲作の試みは1661~1672年、場所は道南、函館に近い大野村であったそうだ。(北海道庁は「松前志」に記述のある、野田作右衛門という人物が米10俵を収穫したとされる、1692年の新田開削を、北海道稲作の始まりとしている。)だが、その後各地で稲作は試作されるものの、なかなか定着しなかったという。
そして、何と百年あまりの時を経て、1800年に再び大野平野で米作りが始まる。5年後の1805年には、江戸幕府の肝いりで田んぼの開発が行われたのだが、3年にわたる冷害が続き、1811年には、稲作が中止されたという。きっと、北海道の寒さでは稲作は無理だとなったのだろう。
だが、そこで終わらないのが北海道!高田万次郎という人物が、見事に稲作を復活させたのだ。それが1850年。そこから、多くの人々が、彼を訪ね、稲作を教えてもらったという。さらに高田氏が稲作を復活させた約20年後、明治の代に開拓民として北海道に渡りのちに北海道稲作の父と呼ばれる、中山久蔵が彼のもとを訪れ稲作を教わり、それを成功させるのだ。

中山久蔵。彼の功績を書いた本はいくつかあり、私も読んでみた。中山氏は、自ら稲作を進めながらも、請われれば種もみをはじめ、ハス苗、大豆、小豆、麦などを希望する分量だけ無償で提供していたという。その量の多さには驚くばかりなのだが、私が驚きを通り越し感動したのが、明治12年から起こったトノサマバッタの大発生による被害の時のこと。年々被害が拡大する中、中山氏は自分の収穫がゼロになった年でさえ、希望する農民への種もみの提供をしていたというのだ。自らが大被害にあいながらも、周りの人を助けることを止めなかった―その行動を支えていたものとは、いったい何だったのか。
ここからは、私の勝手な想像でしかないのだが。中山氏は、目の前の人が豊かになることを助ける、ことはもちろんだが、実はもっと先の、北海道の地全体が豊かになる未来というものを描き、それを現実のものにするために、無償の提供を続けていたのではないか。つまり、自分の今の行動が、ずっとずっと先の未来に続いていることを知っていた。どうしても、そう思えるのだ。
東川町に広がる水田

北海道の地が豊かに。
現在、それが現実のものとなっていることを、私たちは目にして知っている。
条件が悪いとされながらも、それでも決して稲作をあきらめず進み続けた、数知れない先人たちのたくさんの努力と日常とが、それまでの常識を覆し、たどり着いた北海道の今。その粘り強さと誠実さは、北の地を耕す一人ひとりに受け継がれているのだ。だから私は「東川米」に北海道の歴史の結晶を感じ取る。

今度は旭川空港から東川町に直行、だ。

活まち書店 店員M

参考文献:「自然の中で育む産業」東川町HPより(https://town.higashikawa.hokkaido.jp/about/industries.php)