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空からふわり。鳥の目でまちを読み解く 第2回:都留市の答え合わせ

まなぶ   ながめる   親しむ  
2021.9.22

「景観」とは、自然にできたものと、人がつくったものの掛け合わせです。
そうおっしゃる、景観デザイナーの山田裕貴さん(株式会社Tetor代表取締役)に、Google Earthだけで、行ったことのないまちを読み解いていただくシリーズ。
第2回は、前回、読み解いていただいた山梨県都留市について、山田さんが「気になった」ところの答え合わせです。

山田さんが「気になる」とおっしゃっていたことは、3つありました。

まず、手に例えると、手のひらと指のような地形の都留市で、公民館や地区の設置、合併前の旧町村の境はどうなっているのか。
山田さんは、指単位で地区が形成され、指どうしは横につながっていないので、気質や暮らしも、それぞれの指と手のひらで異なり、独自性があるのではないか、と読み解いていました。

次に、農地が少ない都留市の中に、田んぼが広がっている地域がありましたが、山田さんは、両岸の標高差から、そこを流れる川の右岸は切り立っていて、左岸に洪水が発生し、そのために左岸が田んぼになり、家は洪水を避けて山際に建っているのではないか、と読み解きました。

 

3つめは、現在の市役所周辺の市街地を走るL字形の道は、なぜ直角に曲がっていて、いつ頃できたものなのか。

都留市のL字の道

 

これらについて調べてみたのですが、3つめの「L字形の道」の答えは、こちら!

 

都留市史 資料編 都留郡村絵図村明細帳集
出典:都留市史編纂委員会「都留市史 資料編 都留郡村絵図村明細帳集」1988年(都留市)

 

「都留市史 資料編 都留郡村絵図村明細帳集」に掲載されている谷村城下の絵図の中で、年代が最も古いのが、この1683~1692年のものですが、道が直角に曲がって、L字形になっているのが分かります。
絵図は北を右上にして描かれているので、Google Earthをそれに合わせて傾けてみると、同じ形状です!しかも、右の方にある「西涼寺」「東善寺」は、絵図と同じ位置に所在していますし、「都留市役所」は城の位置にあります(絵図では空白になっていますが、当時は城の詳細は描かないのが普通だそうです)。

 

都留市のL字の道2

 

実際に都留市役所に行ってみると、庁舎の正面に、谷村城についての説明板が設置されていました。この絵図でも、道はL字形に曲がっています。
説明板には、「谷村城は、寛永十年(1633)に谷村藩主となった秋元泰朝により整備されました」とありますから、江戸時代にはL字形の道が出来ていたと考えられます。「お城の周りがまちになったから、狭い、細長いエリアが密度の高い市街地になったのだろう」という山田さんの読み解きは、見事に当たっていました!
しかし、なぜ直角に曲がっているのか、という理由までは分かりませんでした。これは継続して調査したいと思います。

都留市役所前の谷村城の説明板

 

市役所の前には、家中川が流れていて、絵図の堀割が残っていることに歴史を感じました。

都留市役所前の家中川

続いて、山田さんの「気になる」2つめ、田んぼエリアの洪水との関係については、現地に行ってみることにしました。

都留全景2

 

山と山の間に田んぼが広がり、画面上部の山の際に家が建っています。画面下部の山の際には大幡川が流れています。
山田さんの読み解きでは、この川が洪水を起こしていたのではないか、ということでしたが、現地で、それを裏付けると思われるものを発見!

都留市の洪水を防ぐ石積み

山は川に対して切り立っていて、あふれる水を防ぐためと思われる石の堤防です。

振り向いて反対側の山の方を見ると、田んぼの向こうの家々は、田んぼより高い場所に建っていることが分かりました。

都留市の山際の家

写真手前から奥に向かって高くなっているので、手前の田んぼと奥の田んぼは石積みの棚田になっています。

さらに、山際の集落に移動してみると、道の両側に家が建っていますが、山側(写真左)の方が高く、しかも石垣がしてあります。

山際が高くなっている

山側に建っている家々を、道から山に向かって見てみると、やはり奥の山の方が高くなっていることが分かります。石垣の上に生け垣をしているのも特徴的です。

山に向かって傾斜が上がっている

2つめも山田さんの読み解きは当たっていました!石積みも、素人目には、それなりに古いもののように感じられ、少なくとも洪水を防ぐつくりになっている地区ではないかと思いました。しかし、実際に、どのくらい昔からそうだったのか。この点は継続調査が必要です。

最後に、地形と地区や旧町村の区域の関係はどうなっているのか。
その答えは、「ミュージアム都留」で見つけました。

都留市の合併

 

明治8(1875)年に置かれた7つの村の区域は、左手に例えると、禾生村と谷村を手のひらとして、宝村が親指、桂村が人差し指、開地村が中指、三吉村が薬指、盛里村が小指、と言えるでしょう。

都留全景3

 

その後、人差し指の先が別の村に分かれて、根元の東桂村が残り、谷村と開地村と三吉村が合併して谷村町となって手のひらが大きくなったのが、昭和17(1942)年の図。
昭和29年4月には、谷村町、宝村、禾生村、盛里村及び東桂村が合併して、都留市が生まれたのです。

現在の、市内の地区は、明治時代の村と同じ7つに分かれていて、名前も、谷村地区、三吉地区、開地地区、東桂地区、宝地区、禾生地区、盛里地区となっています。
これも山田さんの読み解き通り!

しかし、それぞれの地区の気質や暮らしの違い、そして、総合的な読み解きとして、都留市は、地形は厳しいけれど、その結果、農業よりも交流や交易で栄えたまちで、「外の人を受け入れる風土」があるのではないか、という点については、都留市に住んでいる人に聞いてみなければ分かりません。

今回、文献やインターネット、現地を調べてみましたが、答え合わせは、まだまだ半分。最後まで解き明かすため、次は、都留市の人にお話を伺ってみようと思います。

 

活まち大学大学院 院生C

画像・リンク 引用元:Google社「Google マップ、Google Earth」