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『鎌倉殿』では語られなかった、頼朝の血脈がここに。
 

まなぶ   たのしむ   親しむ  
2023.1.11

福島県伊達市と言えば、あの著名な伊達氏はじまりの地として有名です。初代・伊達朝宗(ともむね)から連なる伊達一族は、征夷大将軍・源頼朝から伊達郡を与えられた後、陸奥国の有力豪族として力を増していきました。戦国大名としてその名を馳せ、かの有名な伊達政宗の代には、陸奥国の南半分を征服した名門です。伊達軍の粋な出で立ちが「伊達者」と呼ばれるようになるなど、様々な文化も牽引してきた伊達氏。その初代と源頼朝との関係は、あまり知名度がないように思います。(歴史マニアの方には、周知すぎることかもしれませんが、ご容赦ください)

 

『吾妻鏡』を紐解いてみましょう。

伊達朝宗は、もともと常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)という名であったそうです(異説あり。ロマンですね)。頼朝から見ると、なんと義父にあたります。娘・大進局(だいしんのつぼね)が大倉御所(頼朝の邸宅)に女房として仕えていた際、頼朝より寵愛を受け、側室として迎えられたそう。なお、頼朝の正室は、ご存じ北条政子。「尼将軍」としての勇ましい姿や、日本三大悪女に数えられるなど、その激しい一面は大進局にも向けられました。大進局がこっそりと男子を出産すると、政子は「はなはだ不快」ともちろん激怒(ちなみに、同年に政子も次女・三幡を出産しています)。出産祝いの儀式はすべて省略されてしまい、政子の怒りが向くのを恐れたのか、乳母さえ誰もやりたがらなかったと言います。政子から大進局への嫉妬は止まらず、頼朝から直々に上洛を進められるほどだったとか……。出産から5年後には、追放同然で京都へ逃れ、子も出家させられてしまったのでした。

大進局の子・亀王丸(きおうまる)は、仁和寺で仏門に下り、名を貞暁(じょうぎょう)と改めます。当時7歳。庶子とは言え、将軍の子どもとあれば、命を狙うものや、その身分を利用しようとするものがあってもおかしくありません。鎌倉から遠く離れた地で、静かに修行していた貞暁も、やがてその運命の濁流に巻き込まれていくのでした……。

 

時は承元2年(1208年)、3代将軍・源実朝(さねとも)が疱瘡(天然痘)にかかります。当時、疱瘡は死亡率が高く、非常に恐れられていた病でした。これに乗じ、伊達氏2代目・宗村(むねむら)は、甥である貞暁を次期将軍に就けようとひそかに画策。御家人たちに根回しを始めました。貞暁は僧侶の身ですが、還俗すればその資格は十分にあります。ところが、実朝は無事回復!目論見がはずれるどころか、執権・北条義時に露見することとなり、あえなく失敗。一族は滅亡こそまぬがれましたが、本拠地・高子岡(たかこが・現在の伊達市保原町)は没収。宗村は身を隠し、貞暁も高野山へ逃れることになりました。

ところが、この事件から10年後、北条政子が直々に貞暁を訪ねてきました。「次の将軍になってくれないか」と……。これは罠か、それとも政争に疲れた政子の本心かはわかりません。貞暁はその申し出を丁重に断り、将軍職につく野心もなく、その器でもない、と表明するためか、自らの右眼を潰したそうです。(しかも、父・源頼朝より授かった短刀で!)

同じころ、伊達氏は許され、元の居住地に戻ったとされています。もし貞暁の行動がなければ、伊達氏は滅ぼされていたかもしれません。

 

源頼朝から続く血脈は、頼家、実朝と続くも、断絶。貞暁は、最後の男系男子でした。政子は、愛した夫・頼朝の血筋に希望を託したかったのかもしれません(前述の面会後、政子は高野山を支援し、やがては貞暁に帰依しています)。

その後も有力御家人を巻き込み血みどろの争いを繰り広げ、栄華を散らすこととなった鎌倉殿。もし、何かがひとつでもずれていたら、現・伊達市も重い運命を担う舞台となっていたかもしれませんね。

 

一時は没収された、伊達市の土地。発祥の地・高子岡城跡は現在でも残っています。

出典:【活まちさんぽ】福島県伊達市 伊達氏発祥の地 高子岡城跡編 https://youtu.be/SRbqrULXZIA

将軍を擁するまであと一歩だったかもしれない一族、伊達氏。鎌倉幕府内では息をひそめていましたが、その後の存在感はここで語るまでもありません。

伊達氏の夢見た『鎌倉殿』を、高子岡城跡で描いてみるのも一興です。

 

さすらいのライター E