築102年の古民家を移築再生した家で、暮らすことになった。
場所は東川町の北、山の中のクラフト街道沿い。
エアコンなし。150平米の室内にあるのは、薪ストーブ1台のみ。
蛇口をひねると、大雪山の地下水が溢れ出る。
庭には、大きくて古いハルニレの木が2本。
春は、その根本にカタクリの花が群生する。
早朝には、キツネが通りかかる。
ときおり、シマエナガもやってくる。
1年をハレとケに分けたうちの、大部分を占めるケの日常が、私たちの「暮らし」だ。東川のこの家で暮らす日々は、ハレの日の祝祭感とはまた違う、しみじみとした滋味深いよろこびに満ちている。
そんなケの日側のレンズから、この町で暮らす1日をすくいとってみたい。
午前5:00、目覚めていちばんに水を飲む。
大雪山の、地下水だ。
人間のからだは、体重の3分の2が水でできている。
人類が太古の海から陸に上がったとき、我々は水を離れたのではなく、水を体内に入れて持ち歩く能力を授かったのだ。
東川町は全国でも珍しい上水道のない町。町民約8000人が地下水で暮らしている。
長い時間をかけて大雪山が濾過した水に生かされているよろこびを、毎朝、体内にとりこんで、一日が始まる。
午前6:00、町の豆腐屋さんが開く。
昭和21年創業の平田とうふ店。
アルミのケースを持って、いそいそと豆腐を買いにいく。
店の引き戸を開けると、甘い大豆の匂い、肌に感じるあたたかな湿気、それから水の気配。
むろん、ここでも、大雪山の地下水が大活躍。
作りたての豆腐を口にできる贅沢は、そうそうない。
たっぷりと白く、豊かな豆の甘みは、舌の味覚だけでなく、からだ全体の細胞であじわうよろこび。
午前10:00、町の中心へ買い物に行く。
クラフト街道から町の中心へは、約5キロ。
ケータイ1個をポッケに入れて、ぷらぷらと身軽にでかける。
HUCアプリがあれば、財布はいらない。
ひがしかわ、ユニバーサル、カード、略してHUC。
町民の約8割が持つ、電子マネーだ。
驚きの普及率の高さは、その使いやすさにひみつがある。使う時はQRコードをさっとかざすだけ。面倒な暗証番号はいらない。
そしてHUCなら、お金を使うことが、ただの消費では終わらない。
町の生活をたのしくしようと日々創意工夫する商店さんたちの輪に、自分の働いたお金が循環していく、うれしさがある。
それは、東川の人と町と、自分の明け暮れがつながっていくよろこびだ。
午後2:00、せんとぴゅあで、あそぶ。
せんとぴゅあ「ほんの森」は、町の図書館。
なんと、午後9:00まで開いている。
そこここに配置された世界の名作椅子に腰掛けて、本をぱらぱら。
いつ行っても、丁寧な選書が迎えてくれる。
都会の大型書店のように、いつでもズラリと最新刊ばかりが並んでいるのは本当は胡散臭いことなのだ、と気付かせてくれる。
新しいことばかりが価値ではない。
大事なのは、自分のための一冊に出会えるかどうか。
出会いのチャンスを増やすには、自分の小さな脳みそで思いつける範囲からはみ出して、偶然に身を任せていくのがいい。
だから、あそぶ。無目的に、ふらっと。
最新刊マーケティングの呪いから自由な場所で、自分のための一冊に出会うよろこびを探すために。
午後5:00、おうち居酒屋、開店。
主役は、東川の米と、水と、ご近所野菜。
合わせるのは、町の酒蔵「三千櫻酒造」の日本酒だ。
さつまいもは薪ストーブで丸ごと焼いて、発酵バターと塩で。
大根はヨーグルト塩ニンニクで、生のまま。
きゃべつはアンチョビと炒めてサクサクの歯触りに。
デザートは地元レラ・ファームさんの自然卵「大雪なたまご」と三千櫻の酒粕で作る、手作りアイスクリーム。
もはや神々しい豊かさと美味しさに、手を合わせて拝みたくなる。
高級フレンチも懐石和食も、この充足感にはかなわない。
それは、人間の作為を超えた自然の力、東川の土の恵みで生み出されるよろこびだから。
午後8:00、庭で、星空観察会。
我が家にはテレビがない。でも、娯楽には困らない。
すぐ頭上に、すばらしい星空があるからだ。町の中心から離れたクラフト街道はとっぷりと暗く、大きな夜空に満天の星がまたたく。
自然のものは、毎日見ても飽きないから、不思議だ。
飽きずに眺めるうち、それは当たり前の風景として私自身に沁み込んでゆき、大らかな気持ちを醸成してくれる。
汲めども汲めども、星空は尽きない。
惜しみなく与えられているよろこびに、毎晩感謝して眠る。
そんなケの日を東川町で重ねて、240日が過ぎた。
ケの日のよろこびとは、なんだろう。
それは、自分を小さく感じることの、心地良さであるように思う。
大雪山の水や、東川の土の恵み。大きな星空。人とのつながり。
自分より大きな存在に護られ、ありがたく享受するよろこび。
東川の暮らしには、そんなケの日のよろこびが、たくさんちりばめられている。
この先100年も、この家が東川町に在り続け、毎日をよろこびで満たしてくれますように。
狐水亭