1985年夏。
職場の慰安旅行で鳥取に行った。
職場の上司や同僚と一緒のバスに乗り、一緒の行程で、一緒の旅館に泊まり、夜は皆と一緒に宴会をする。
年1回の恒例行事が、どこの職場にも当たり前にあり、旅行の幹事は若手が担い、
道中や旅先で、いかに皆んなを楽しませるかということを、企画や準備する時から頭を悩ませ、全力で参加するメンバーのおもてなしをする。
こんな出来事や風潮が、まるで業務の中の1つのイベントごとのように、普通に行われていた。
これが、ザ慰安旅行だ。
今では、慰安旅行なんて言葉自体、もはや死語のようになってしまったけど、1985年という時代は、そんな時代だった。
その慰安旅行の道中の、バスの中の自分の気持ちが思い起こされる。
当たり前のイベントを楽しんでいる、若手メンバーやおじさんおばさんたち、偉い上司の人たちの中を、少し冷めた目で見ながら考えていた。
「せっかくの土日を潰していつものメンバーと一緒にいるのはいやだなあ」、「行きがけのバスの中でお酒を飲んでつまみを食べてたら、夜の食事が十分できなくなるんじゃないか」、「途中観光地に寄らずに旅館に行くだけなら、4~5時間かけて遠くに行かなくてもいいんじゃないか」なんてことを考えていたことを覚えている。
そもそも私の場合、過去の出来事は、言葉や音声でなく、動画のようにカラーの映像が、頭の中のモニターに映し出されるように、思い起こされることが多い。
その映像と、その時に感じた気持ちが、音声のように合わさった動画が、記憶の1シーンとなっているような感覚だ。
それからすると、この時の慰安旅行のことは、道中の景色やバスの中の様子、泊まった宿や宴会のこと、そして同僚の顔さえも、ほとんど思い出すことができないのに、鬱陶しかったり、嫌だったり、疑問に思った気持ちだけ思い出すことができるのは、よっぽど強烈な気持ちだったのかもしれない。
ほとんど消えてしまっている中で、鮮明に覚えているシーンが、2つだけある。
1つは、「あごちくわ」。
「あご」とはトビウオ(飛魚)のことで、そのすり身でつくった竹輪が「あごちくわ」。
記憶しているシーンは、鳥取へ向かうバスの中で、職場の中で一番偉かった部長職の人が、突然、「あご。あご。」と言いだし、バスを寄り道させて、鳥取市内の市場のような場所に横付けし、そこで自ら降りて、たくさんの「あごちくわ」を買ってきて、皆んなに配り、そしてその場で食べさせたことだ。
たぶん、今でも忘れていないのは、「あご」なるものが、実は竹輪だったことと、「あご」自体が、飛魚の名称だったこと。それに、初めて食べたその竹輪の色が、少しくすんで黒色がかっていたこと。その時の部長さんの顔が、とても嬉しそうだったからだと思う。
もう1つは、「羽合海水浴場」だ。
記憶しているシーンは、足が着くか着かないか、波打ち際から結構離れた海の中で、沖に向かって立っている。
目の前に広がる青い空と、水平線の境目から、定期的に押し寄せてくる波。
高い波がくると、立ち泳ぎして、波をやり過ごす。
足の裏と、海の底にある見えない砂浜が、くっついたり離れたり。
その繰り返し。
遠くから聞こえるキャーキャーと騒ぐ、海水浴客たちの声。
苦くてしょっぱい海水の味。
頭の中の映像は、4Kのように鮮明だ。
今、改めて思い出して見ると、何でそんなシーンを覚えているのか、何で、慰安旅行の途中で海水浴場に寄ったのか、全くもってわからない。
でも間違いなく言えるのは、「羽合(ハワイ)海水浴場」という名前は、頭の中に強烈に刷り込まれてしまったということだ。
自分的には、「海水浴場」という言葉を聞くと、頭に思い浮かぶのは、あの時の真っ青な海や空の色だし、賑わいや開放感、楽しさみたいな感情も、同時に湧いてくる。
「海水浴場」という言葉さえも、ノスタルジックな響きがする。
少し調べてみたところ、全国の海水浴場の数は、奇しくも、あの1985年を境として減り続けているらしい。
人口の減少や、余暇の過ごし方の変化など、いろんなことが背景にあると思うけど、そんな中で、海水浴場での新たな体験、レジャー機能の追加、地域の魅力あるイベントなどで、海水浴客が増えているところも結構あると聞く。
個人的には、My海水浴場の「ハワイ」だけでなく、その近の海水浴場や周辺の砂浜など海辺全体が、「魅力あるもので、あり続けてくれたらいいな」なんてことを、湯梨浜町に向かう車を運転しながら考えていた。
目の前の看板は雨に濡れて、空は曇っているけれど。
出口は、結構近いかもしれない。
活まち新聞 記者K